日常、救い、憎悪

朝、あるいは昼、あるいは夕方、もしかしたら夜に起きて、会社に行く。机に向かう。または自分のアパートで、机に向かう。全然仕事する気にならねえな、とか思いながらツイッターを見たり、コンビニ飯とか、食事をする。鉛筆を削る。絵を描く。今日全然描けねえなどと思いながら、絵を描く。または、PCに向かい、エクセルに進捗を打ち込み、電話をして、上司に怒られ、プリンターと机を往復し、フォトショにイライラし、メールを打つ。

鉛筆を削る。絵を描く。線を引く。紙をめくる。ソシャゲのイベント回さないとなどと思いながら、今日中にこの仕事終わんのかなどと思いながら、週末映画に行こうかと考えながら、今月お金がないと考えながら、この会社やめたいと考えながら、絵を描きながら、生きる。

そういう生活をしている。そういう生活をしていた。

死んでしまった人たちがどんな生活をしていたのか、全てではなくても、多くのことを知っている。彼女が、彼が、今日も変わらずこれからも変わらずするはずだったのと同じ仕事をしている。

あそこにいたのは私かもしれなかった。死んだのは、殺されたのは私かもしれなかった。死んでしまったのは、名前も知らない、どこの誰かも知らない、私の私たちの仲間だった。

仲間が殺された。

そんなことが起きる日が来ると思わなかった。自分たちが、自分たちの仕事をしているというだけで殺されるなんて思わなかった。アニメ会社には燃えるものしか置かれていない。火事の心配をしたことがないわけではない。それでも、人が死んで人が作ったものが燃えてしまったことが、そんなことが起きるなんて、だってそんなことみんな考えて生きていないだろう。目の前の仕事と、自分の生活のしんどさと少しの楽しみだけを考えて、それが精一杯で、それでもただ普通の人間と同じように生きていただろう。ただ生活していただけだ。アニメの仕事をしていることは私たちにとっては何も特別なことなんかじゃない、ただの日常だ。普通の生活だ。過剰に敬われたり、蔑まれたりしなくていい、ただの仕事だ。生活だ。

それなのに死んでしまった人がいて、私たちは、少なくとも私は、もう「いつ死ぬかわからない」「今日殺されるかもしれない」ということを、考えずにはいられなくなってしまった。仕事に集中している間だけは全てを忘れてただ仕事を、今やっているカットにムカついたり落ち込んだり愛情を注いだりしていられるけど、ふと息を抜いて、ちょっとツイッターを開いたときとか、トイレに行く時とか、大したセキュリティじゃない出入り口を通る時とか、消火器が視界に入って、それだけで、それだけで死んだ人たちのことを、これから恐怖の中で生活していくことを考えてしまう。

アニメ会社に起きた事件だからと特別視してはいけない、という意見を見る。それは一面では正しいし、一企業に起きたこと、どんな会社や施設がそういう危険にさらされるか分からないということ、それらが十分に理解されて語られてほしいと思う。

それでも、アニメ会社に起きたことだから、これほどの人が衝撃を受けているというのは事実だと思う。そうなってしまっている。もちろん、私は同業者だから、そうじゃない人より衝撃が大きくて特別な、ほとんど自分の身に起きたこととしてしか捉えられないというのもあるけど、それだけではなくて、私も多くの人と同じく、ギリギリのところでフィクションに生かされてきたのだ。

絶望や憎悪に飲み込まれそうな、クソみたいな世界のゴミみたいなギリギリの人生を、フィクションで描かれる世界になんとかしがみついて生きていたんだ。だから「そういうもの」にならずにいられた。あの犯人のような、憎悪と暴力を、破壊を撒き散らす存在にならないために、私たちにはそれが必要だった。

それは「役に立つ」とかって話なんですか。私たちをなんとか繋ぎ止めてくれたものを、それを作ってきた人たちが攻撃されて死んでしまったことを、それを悲しんだり絶望したり、何か行動したら、「役に立つ、優秀な存在だから悲しまれてる」って言うんですか。その共感や想像力を自分に関わりのない人たちにも向けてみようっていうなら分かる、私もそうしたいと思う。私は昨日、「ああ、私たちは“普通”の人たちよりも先に殺されるんだ」と思った。ここ数年で起きた凄惨な事件のことを考えた。憎悪の時代の中で、次に殺されるのは自分たちのようなものなんだと思った。ただ、生きていて、人間として尊重されるはずの人たち、そして、人間であろうと努めようとしている人たち、それが殺されていくんだと思った。憎悪はこんなに近い場所に居たんだと思った。こんなにすぐそばに近づいてきていたのかと思った。自分たちはそういうとき、選ばれるんだと思った。

日頃から普通の人よりロクでもない生活をしている。私は今、たまたま少し余裕のある状況にいるけど、少し前まではお金もなければ精神も肉体もボロボロで、毎日ストレスと絶望に殺されそうな生活をしていた。アニメーターの労働環境がどうとか騒がれるたびに、そりゃ改善されてほしいけど部外者の言うことを見てると自分がまるで人間じゃないみたいで、見世物じゃねえんだよクソ、と思っていた。そういう環境で生きてんのにアニメーターはこんなにすごいんです!なのに低賃金でかわいそう!とか言われてもハハハ私もこんな業界滅べばいいと思う、なんでしがみついてんだろうね普通の生活ができるならやっとるわと思っていた。京アニみたいな環境で仕事ができる人間は私たちの中ではほんの一握りで、詳しい事情とか給料の額なんて知らないけど、彼らだって別に余裕のある生活をしていたわけじゃないだろう。普通の人たちと比べたら、最低限かせいぜいギリギリ並、というくらいじゃないのか。知らないけど。役職が上の人はそれこそ知らんけど。

そういう、いつ心が折れてもおかしくない世界で生きてて、つーかもう何回もボッキボキに折れてて、それでもなんとかしがみついて、それしかできないからそうやって生活していることが、まずあんたらに想像できるのか。大学を出て、転職するにも環境を選べるような人が、週5日遅刻欠勤せず働けるような人が、ソシャゲに躊躇せず課金できるような人が、躊躇なく政治の話をできる人が、黙るか黙らないかを自分のために選べるような人が、私がこの日常を手に入れるまでどれだけ、どれだけ、くそ、くそ、分かるかよ、分かってたまるか、ツイッター見てんのがただのオタクしか、部外者の無責任な差別主義者のクソ野郎ども、ただの消費者、安全な場所から自分に関わりがあることにだけものを言う、正しい振る舞いをしようとする、賢いことを言おうとする、そういうだけの人間しかいないと思ってるのか。

分かっている。分かっている。分かっている何を言うのも言わないのも自由です。言いたいことを言えばいい。言うべきことを言えばいい。だけどそれを見たときに傷つくのが誰なのか考えろよ。生活が脅かされたのは同業者だけじゃない。おまえだって無関係じゃない。今まで起きた事件に私たちは無関係じゃない。そのどれかだけだと思うなよ。おまえに見えているものだけだと思うなよ。どれかにしようとするな。したいようにすればいい。したいようにしてください。だけどここにいるのが、あんたを見てるのがそれができる人間だけだと思うなよ。態度を選べる立場の人間だけだと思うなよ。あと差別主義者は黙れ。どのスタジオにも韓国や中国から来た人、ルーツがある人が必ず一人はいる。私たちと何の違いもなく同じ仕事をしている。差別主義者のためになんか仕事していない。憎悪のために、殺されるかもしれないことを考えながら、憎悪や分断のためになんか働いていない。そんなものに踏みにじられてたまるかよ。頼むからあんたらも憎悪に負けないでくれよ。

手を挙げられなかった

※以下、主題とはズレた超超超超個人的な話です。




「ここにいる女性で痴漢をされたことのない人はいますか」


東京駅に行ってきた。

それを聞いて、来なければよかったとは思わなかった。

何度その言葉を見聞きしても自分は同じように傷つくのだと分かったから。

「痴漢されたことのない女なんていない」

この言葉を聞くとどうしてこれほど傷つくのか、未だに上手く説明することができない。説明したくないだけなのかもしれない。色んな要素が入り組んでいて、その糸をほどきたくないとすら思う。

「幸運にも私は痴漢にあったことがないので」とか言う気にもならない。いや過去に似たようなことを言ったことはあるかもしれないけど、少なくとも今は幸運だとか思いたくもないし、思わない。

そもそも、自分が痴漢にあったことがないということをわざわざ言うような機会なんてそうそうない。ましてや被害にあった人にわざわざそんな自分の話を言うわけもない。言いたくないし、言う理由がない。


でも、もうとにかくその言葉を言われるのが嫌で仕方がない。理由は上手く言えないし、言えたところでその言葉をとっかかりに話そうとしている人を邪魔してしまうのが分かってるからそれが嫌で言いたくない。

他人の口を塞ぎたくもないし傷つけたくもない。他人の口を塞いだり傷つける人になりたくもない。

だからいつも誰かがその言葉を使わずに話してくれるよう祈ってる。その言葉を聞きたくない。



「見える範囲では手は上がらなかった」

簡単に言うな。
簡単に言うな。いや、簡単なわけないのは分かってる。そんなの分かってる。じゃなかったらこの場所にいない。だからここに来たのだ。

手を上げようとした、その時は。手を挙げなくちゃと思った。だっていつだってその言葉を言われるのが嫌だった。でも手を上げようとしながら私は周りを見回した。「見える範囲では」手を上げてる人はいなかった。

結局、私は手を挙げなかった。

いや、分からない。あと2秒沈黙が続いていたならそうしたかもしれない。でも私がそうする前に、「いないですよね」という言葉でスピーチは再開した。


こわかった。


誰が手を挙げると思うんだ。

この場で、その話で、誰が手を挙げると思うんだよ。この場で手を挙げることに何の意味があるんだよ。ここにいますと言って何になるっていうんだよ。「私は痴漢にあったことがないので略」とかいちいち言うなと言うならどうしてわざわざ聞き出そうとするんだよ。炙り出そうとするんだよ。いやそんな意図はない、分かってる、分かってる、分かってるよただ仲間意識を高めようとしてるだけだってそんなの、それは分かってる。

見えなかっただけで手を挙げた人はいたのかもしれないし、同じように手を挙げられなかったのかもしれない。手を挙げた人がいて、「いないですよね」が「ほとんどいないですよね」に変わったとして、結局、問いの時点でほとんど「いないですよね」と言っている。(それでも、「ほとんどいない」と言ってくれればたぶんほとんど傷つかないで済む)

言葉上問いになっていたって、いないことを前提に話してるのが分かる。その言葉を使う人が何の話をしたいのか分かってる。話を聞きたいと思う。

でもその言葉は聞きたくないんだ。

だけどその言葉を言うなとは言えない。

だって実際ほとんどそんな人いないんだ。それがおかしい。それがおかしいよ。私のような人間が都市伝説みたいに扱われて、いないものとして話される、それくらいそれが普通になっている、それがおかしい。一歩外へ出たら逆に痴漢被害者なんてそんなにいるの?と言われる、それがおかしい、それに反論するためにその言葉が使われていて、私みたいな人間はこんなおかしなねじれでいちいち傷つかなくちゃいけない、それがおかしい、おかしいよ。



「被害にあったことがないから関係ないなんてことはないですよね。被害にあったことがない大多数の男性や、ここに来てない人は関係ないなんてことはないですよね。同じ世界に生きてるんだから関係ないはずないですよね。自分のことじゃないのに怒るのはおかしいとか恥ずかしい迷惑とか、そうじゃないですよね。理不尽や差別に怒ると、あなたには関係ないのに何故怒るの、と言われることがあります。どうして他人のために怒ってはいけないのか。人間は、自分のためにうまく怒れないとしても、他人のためならすごく力が出たりする。自分が傷ついたわけじゃなくても、他人の痛みを想像して心配したり助けたり一緒に怒ったりできる。それは簡単じゃないかもしれない。やらない方が楽かもしれない。でもそれは、何もしない理由にはならない。そして私たちは、たったひとりでそれをしなくちゃならないわけじゃない」



前に出てそう言いたかった。

でもなんかめちゃくちゃ主題とズレてるし言うべき相手がその場にいないような気がするし話をしたいという人が他にもたくさんいたし何より死ぬほど寒かったから縮こまって座って最後まで話を聞いていた。別の人のスピーチでほっとしたり、心を揺さぶられたりした。



帰り道、一緒に来た友達に話をするとその人は私の話に頷いてくれた。前で話をするのが見たかったとも言ってくれた。でも、今回はこれでよかったんじゃないかと思う。私はたぶん、あの場で自分の話をしてしまえば必ず後悔をした。自分なんかが話すべき場所じゃなかったとか、それを言うことで誰かの口を塞いだかもしれないと必ず思った。今日のことを、「来なければよかった」とは思いたくなかった。今日は、誰かの話を聞きに来た。それだけで十分だと思う。あの場所じゃなくても私は話せるから。

でも、できるならあの場所にいた人に、私は仲間なんだと伝えたかった。仲間だと思ってほしかった。それは、それはすごく、個人的な願いだし、私みたいな人間のための場所じゃない。

私の話すべき順番はきっとしばらく回ってこない。結局、その時が来るまで待てなくてこれをここに書いた。今日黙っていたのは、これからも黙っているってことじゃない。どうしたらいいかずっと考える。私はこれからもその言葉を聞くたびに傷つくと思う。だからといって暴力に憤るのをやめることはない。どちらかにはなれない。 そんな選択はしない。

頭がよくて強くて優しい人

新年早々風邪をひいて熱はすぐ下がったのだけど頭痛と鼻水がひどくてまるで頭は回らないのにひどいニュース、ひどいニュース、ひどいニュースばっかで休んでても仕事のメールは来るし下手に自宅でも作業できる仕事だから当然のように対応を求められるし上司とは会話したくないしぐちゃぐちゃになりながら仕事してたら特に何というわけではなくとめとなく涙が出てくる。
『アリー/スター誕生』のサントラを流してなんとか正気を保とうとしてるけどむしろ涙が加速するだけではという気もする。映画はすごく好きだった、あんなにつらいエンディングだと思わなくて、だって、これからなんとか戦いながら生きていくのかと、だってそういう時代だから、死んだって仕方ないから、どうやって死なずに自分の欠落と付き合っていくのかということが求められてる時代だって、だからどうしてって思ったけど
でも少し経ったらああ戦い続けることをもう求められたくないな、戦うことをやめるときくらい自分で選びたいなってどんどんジャックが自分に思えてきて、風邪のせいで余計に苦しくてもう社会のこととか考えたくないな、ごめん、もう疲れたよな、疲れたんだよ
でも戦い続けてしまうんだろうな自分は 楽になんてなれなくてさ
ジャックが楽になったかって 別にそんなことないと思うけど
悲劇に酔っているとか 残される人の気持ちを考えてないとか
まあ そうなんでしょう
あなたは正気なんでしょう 分かっている自分が間違っていることなんて
いつだっていなくなりたいだろ

ここ数日で世の中の人は自分の加害性に向き合ったりはしないのかって思った
何もしてなくても迷惑とか笑っているだけでただ生きているだけで傷つくとか
おまえは奪っているのだと言われたことのない人
一度被害者になれば加害者に悪に罪人になることはないと思っている人
何を言っても自分は許されると 何を言っても自分が正しいと思える人
誰かを殺したことがないと思っている人
うらやましいな 端的に すげーよ
自分が女だとはもう思えないな
女だからという理由だけで誰かと仲間になれたりしない
じゃあどうしたら仲間になれるのかって 分からんけど
正しいものを目指す
正しさってなんだろうか
正しさのために喋ってほしいという気持ちと
正しさのためじゃない言葉が聞きたいという気持ちが両方ある

自分より頭がいい人の中には本当に公平公正に物事を話している人がどこかにいるんじゃないかって期待が未だにある
自分より頭がよくて強い人なら自分や他の人のことを慮ってくれる、分かってくれるんじゃないかって気がしてしまう
だけど自分より頭がいい人にだってその人の主義主張があって
それが正しいとするために言葉を組み立てて喋っていることに変わりはないわけで
でも何かそうじゃない部分で喋ってくれる人がいるんじゃないかって期待がどこかにある
じゃあ「そうじゃない部分」ってなんだよって言われたら まあ分からんのですが

でもまあ 自分より頭がよくて強くて優しい人 いねえよな
そのどれかあるいはすべてが「私にはそう見える」にすぎないのだろうし
そもそもこの「自分より」って何なんだろうか?
というか単に私が「頭がよくて強くて優しい人」になりたかったということなのかもしれない
そして周囲の評価を聞く限りではある程度はそれを実現してはいるのだろうし
でも考えることも強さも優しさも これで足りるなんてことはない

会社に来たら椅子がなかった

会社に来たら椅子がなかった

別にいじめられてるとかではなくて

クビになったとかでもなくて

単にどこかに新しく席を作ったりどこかで椅子が足りなかったり

何かの理由で間に合わせに椅子が必要だったりして

私が休んでていなかったから 間に合わせに私の椅子を使ったんだろう

休んでた間のメールを整理して打ち合わせに出る前に全部送ったら

入れ違いで同じデータを上司が送っていた

責められてる気がした

上司は来てないと思ってたら先に打ち合わせに行っていた

出かけるとき「さっき(私)さんは来てるかって電話ありました」と同僚に言われた

責められてる気がした

そもそも電話あったなら来たときに言ってくれよ

電車に乗っていたらどんどん苦しくなって気がついたら涙が止まらなくなっていた

どうして椅子がなかったんだろう とそればかり頭に浮かんだ

どうして椅子がなかったんだろう

何に使ったかが知りたいんじゃなくて

どうして使ったあと戻さなかったんだろう

戻せなかったならどうして代わりの椅子を置いておいてくれなかったんだろう

どうして誰も使っていない隣の席の椅子じゃなくて私のだったんだろう

どうして私の席に椅子がないことを誰もおかしいと思わなかったんだろう

使わない椅子はいくらでもあるから代わりはあるし

使っていたのと同じ種類のに取り替えたから

椅子がないことは大した問題じゃない

大した問題じゃないけど

会社に来たら椅子がないとか

会社に来たら机の上に誰かの荷物が置きっぱなしになっているとか

会社に来たら机の上に置いていた付箋が誰かに使われて消えてるとか

そういうのが全部

いちいち削られる

と 涙が止まらず喫茶店で30分ほど休憩してから向かったら

打ち合わせは終わっていた

風邪はまだ治らない

セックスを許した(ある非性愛者の『君の名前で僕を呼んで』感想)

君の名前で僕を呼んで(Call Me By Your Name)』を観ました。
死ぬほど個人的な感想を書きます。
まとまりない文章なんですが、書いておかなくてはと思った。

私はデミセク寄りのノンセクとかその辺の自認を今のところしている人間で、BLが好きです。


!ネタバレ注意!


ずっと楽しみにしていました。ただ、こないだシェイプオブウォーターが果てしなくノットフォーミーだったことで絶望して「私、思ったよりララランドに救われてたんだな…」と謎の自覚をしたりなんだりしていたので、恋愛映画を見ることがわりと不安だったんですが、大丈夫でした。安心した。

シェイプオブウォーターの件で(一応言っておくがシェイプオブウォーターは別に悪くはない)二人は幸せに暮らしましたENDで「共に生きる」ということが幸せとして肯定される物語を食らうとめちゃめちゃすり減ることが分かったので、最後エリオとオリヴァーが離れ離れになったからこそ好意的な感想が出てきているな、という気もします。

同性愛が悲恋にされがち問題に関しては私もうーんと思うんだけど、結ばれないことで救われる人間もいたりする。

この映画は時代設定もあるし、世代ごとに少しずつ環境や葛藤の在り方が変わっていくのも大事な要素だよなと思いました。オリヴァーやお父さんが叶えられなかったからこそエリオのこれからの人生がどんなものであれ祝福に満ちたものだといいなあ。彼らはそれぞれの時代に生きるパラレルな同一存在なんだなと思った。


というかそもそも私は基本的に、相手を失う(あるいは永遠に獲得できない)ことを含めて己という存在が完成される関係性が死ぬほど好きなんだよなあ…みたいなことを考えつつ、具体的に好きだったところをあげます。

・じゃれあいのいとけなさに泣いてしまう
・あの恐る恐るの「えいっ」って感じのやりとりが一番泣いちゃう
・背中をぽかぽか叩いて飛びついたり、足の指を重ねるところがすごく好きだった
・相手の身体に興味津々なのが観ていて楽しかった(性器以外の部位も慈しんでいる感じが不快感がない要因だと思う)
・女の子としたとき、彼女が笑い出しちゃうのがすごく好きだった
・「痛みを葬るな」という台詞


ところで基本的にフィクションにおけるセックス描写に対しての私の率直な反応はだいたい、「変なの……」という親のセックスを目撃した子ども並みの感想なんですが、
たぶんセックス以外の描写に満足・納得していればキャラがセックスすることは受け入れられるのかな?という感じがしていて、だからこそBLは読めるというか、BLのことが好きなのかもしれないとも思う。

この映画を観て、あれは自分だと思う一定の誰かがいることをとても嬉しく思う一方で、私にとってはあれは絶対に私のことではなくて、でも、その上でなお私の見た夢だった。

自分にとってBLとは、私の愛せる愛だの恋だのや、私の愛せるセックスを探せる場所だったと思う。
もちろんセックスを愛さなきゃいけないなんてことはないんだけど、でも私は私の納得のために、それらを理解したかった。
この映画においてはエリオとオリヴァーだけじゃなくて、女の子とのセックスもまったく嫌悪感を感じなかった。楽しそうだった。いつもの「なんか変なことしてんな」という気まずさや居心地の悪さや退屈さではなかった。「なんか変なこと」じゃなくて、何をしているのか理解ができた気がした。
なんていうか、その「衝動」そのものが理解できた気がした。

もちろん私がそう感じただけで、そう思わない同じような属性の人間もたくさんいると思う。あくまでこれは私の話だということを分かってほしい。

でもなんていうか、私はセックスのことは分からないがその衝動というか、強烈な感情の矢印だけは持っていた。というか持て余していた。
主に二次元の男にそれを向けている夢女なので、それはいつも自分との戦いだった。しかも、同族嫌悪を抱きがちなタイプのキャラに対していつも戦いを挑んでいた。私は自分を肯定する代わりに対象のキャラクターを肯定しようとしていたんだなと最近気づいたところだった。

その誰かのことを好きではないのかもしれなくても、好きになりたいとずっと思っていた。
だからこの映画の、相手を肯定して自分を認めるという行為は、私の思い描いていた「好きになりたい」の「好き」だった。
私の「好きになりたい」が叶った世界だった。
私のこの、精神的デュエルを渇望する衝動のように、たぶんそれと対等に、肉体的接触を渇望する衝動がそこにあった。
私はそれをしないけれど、私はそれを理解できた。これは勘違いかもしれないが。

私は初めてセックスと対等になれたような気がした。
自分でもよく分からない、こんな感想はおかしいのかもしれない。おかしいのかもしれないとつい言ってしまうことが苦しいけれど。
でも私はこの映画を見て、なんだか少しだけ楽になった。
たぶん私は一生セックスに呪われて生きていくんだと思っていた。その呪いが少しだけ解けた。
この「少し」がどれだけのものなのか、どれだけ予期していなかったか、どれだけまだうまく受け止められないものなのか、あなたに分かるだろうか。

そんな不思議な映画だった。救われたというのとも少し違う。ただなんか、身体が軽くなったような、気が楽になったような不思議な心地だけがある。肩の荷が下りたような、逆にようやく地面に足をつけられたような、急に何かから自由になったことへの戸惑いがある。

それと、セックスとは関係なく、最近「自分の身体は自分の身体である」ということをときどき思い出しては身体性の獲得へとじわじわ取り組んでいるんだけど、それの一助になったような気がする。

あと、この感想の本筋とはまったく関係ないんだが、この映画では少年が大人になり青年が子どもでなくなるけれど、子どもであることも大人であることも罪ではなかったのが、何気ないけれど確実に嬉しかった。

地獄が俺を知っている

ニートして1カ月、予想通りのタイミングでハイパー鬱モード。
具体的にはいつもの血祭り前スーパーハイからの腹痛クラッシュ急降下。
私は血祭り前に体調とか気分が沈むのではなく血祭りが始まる直前が最もハイになる時期で、なった瞬間腹痛とそれまでアドレナリンでごまかされていた疲労が一気に襲ってきて1週間使い物にならなくなるのである。

予想外に朝起きることができていて、ウッソだろ私どうしちゃったのかしらなんて思いながら帰宅後は原稿という生活をしていたので疲労がたまっているのは当然なんだが、そもそも半年くらいほぼ引きこもっていたのに平日フルタイムで働くことができるわけなくねえかとは思っていたんだが、でも、できていた、できていたのだ、いたのだけれど。
まあ一度栓が抜けるとたまっていた疲労心労は一気に、そして鳴りやまねえし、体調不良で休んでんだから原稿だってできるはずねえのに、進捗がヤバイから余計に気持ちが焦って休まらねえし

そもそも原稿せずちゃんと早く寝てたらこんなに疲労たまらなかっただろと思うかもしれないけど、でも原稿がないとむしろ朝起きれていなかったし、会社に行くのも耐えられなかっただろうし、原稿があるからなんとかやれていて、昨日も少し原稿を進めたら随分気持ちが楽になってきた。

「ちゃんと寝よう」というやつをやめようかなと思って、とにかくこれ以上は今日はもう作業する気力体力ねえなって段階になったら布団入って、まあだいたい3時くらいなんだけど、それで9時くらいに起きて、まあ、2週間くらいはそれでやれていた。
よくないやり方なのは分かっているんだけど、でも早く起きるために早く寝るの無理なんだよ。それができたらこうなってない。寝れない原因はだいたいその日に満足していないからで、体力削っても原稿して満足して寝る方が心は穏やかなの。体力的にそれが続くわけないのは分かってたけど、でも、そうするしかなかった。他にいい方法が思いつかない。あったとしてできる気もしない。

休んでしまったこと、それ故に次の仕事が来ないことに落ち込んでいるし恐怖を覚えているし、どうなんだろうなと死ぬほど不安なんだが、でもまだ1カ月ですよ、無理だったら無理で他の方法また考えます、働き方、自分に合っているもの分からないけど、でもまた血反吐吐きながら試行錯誤するよ、がんばるし、がんばってるし、がんばれないときだっていっぱいいっぱい考えてんだよ、考えすぎて動けないってのもあるけど、でもさあきっと一生こうやって地獄を背負って生きていくんだろうなって、だから一生苦しいままなんだろうって、それを誇らしいとか、格好いいとか、そんなことも言いたくねえよ、ただ、ただ、苦しく、苦しさをごまかさず、ごまかすことができず、地獄を愛さず、憎まず、地獄と付き合っていく。
つーかここんとこずっと風邪気味みたいな体調だなあまあ冬だしなあと思ってたけどこれは花粉症じゃないですか?わりと重い花粉症のくせにいっつも風邪気味なせいで花粉の季節だってことに気づかねえんだよな。

読書と重力

仕事をやめて二ヶ月経った。送別会で久々に元職場の人々と顔を合わせて話を聞いていたら、ものすごく自然に自分にとってそれらが他人事になっていることを実感した。私はあそこで、それらを日常にして暮らしていたんだと思った。どんなに不恰好で無様でも、私はあそこで暮らしていた。ひとときでも。そのことに今は満足していると思う。

積読を読んだり図書館に通ったりしたいなと思った。勉強がしてみたかったし、これから何をするにしても、もっと勉強が必要だと思った。久しぶりに夜通し本を読んで図書館に足を運ぶと、知を貪ることがこれ以上ないほど幸福に感じた。

二月の間、休養していたときに何をしていたか今思い出せないんだけれど、月末にバイトを始めて、あと同人誌の原稿を始めて、なんかもうとにかく同人誌の原稿というのが生活を圧迫するくせにめちゃくちゃ生活を豊かにする。豊かにするというか、安定させる。と、いうか、はっきりさせる。しなくちゃならないこと(締切)がないと、楽で自由だけど寄る辺なくて、真っ白な平野を歩いて行かなくちゃならないような途方のなさが出てくるんだけど、山を設定したらとりあえずその山に登ることがしばらく生きる理由や目的になるので、もうずっと生きる理由が分からなくなっている上にどうやって生きていけばいいかも分からないのだけれど、今年中はとにかく同人誌の原稿をするために生きようと思います。

しかしバイトや同人誌の原稿をしていると思っていた以上に読書をする時間というのはなくて、結局電車の中で読んだり寝る前に少しだけという感じだから、かなりスロースペースにはなるけれど、ゆっくりでも読みたい本を少しずつ読んでいきたい。


プリズン・ブック・クラブ--コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年

プリズン・ブック・クラブ--コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年

一ヶ月ほどかけて読んでいた。一晩で読み通せない本を読むのは久しぶりだったのでペースが掴めず、生活を立て直しながら合間合間に読んでいたので最後は読み終えるのが寂しくなってしまった。空き時間に友達に会いに行くような気持ちで読んでいた。これから読書を取り戻していくぞ、というタイミングだったので、本を読むことに対するモチベーションが強化されてとてもよかった。読書についてもそうだし、その他の普段考えているテーマなどに結びつく場面も多々あって、それらが整理されたとは言い難いけど、これからの地図のような存在になってくれたなと感じる。



かつていた場所は過剰な重力の支配があって、自分が本来身動きがとれる存在であることを思い出した者はその重力から逃れようとする、そんな世界だった。私はかつて、その場所にある重力にこそ惹かれていたのかもしれないとすら思う。自分の軽さがあまりにも寄る辺なくて、途方にくれて、やっと選べると思った重力が、いかりが、そこにあると思いたかった。

けれど私は思ったのだろう、そんなものが欲しかったんじゃない、と、きっと。まだ見たことのない景色が数多にあるというのに、私はここで生き続けてここで死ぬことはできないのだと。

私は嵐から逃れたのではなく、再び嵐へと舞い戻ったのだ。私は地獄から逃れたのではなく、私の地獄に再び出会ったのだ。

私は嵐を追うことも逃げることもできず、ただ嵐こそが私であることをようやく知った。

読書は旅なのだろうな、とは以前から思っていて、だからこそ、再び読書と共に生きたいと思った。どんな場所でも、どんな道筋でも、きっとそばにいてくれるだろうから。どれくらいの重さがちょうどいいのかなんて、そんなの時と場合によるとしか言いようがなく、おそらくそのちょうどよさを探すために、誰かの重力を知ることを要請する。寄る辺ない生き方だからこそ、自分で重力を探す必要がある。それはほとんど死に場所を探すことに似ている(生きる理由と言い換えても、あまり変わりはないように思う)。私はずっと死んでもいい理由を探しながら、いまだ死に損なっている。死んでいったかつての私たちを時折ふりかえりながら、その残響たちが巡る荒野で。