頭がよくて強くて優しい人

新年早々風邪をひいて熱はすぐ下がったのだけど頭痛と鼻水がひどくてまるで頭は回らないのにひどいニュース、ひどいニュース、ひどいニュースばっかで休んでても仕事のメールは来るし下手に自宅でも作業できる仕事だから当然のように対応を求められるし上司とは会話したくないしぐちゃぐちゃになりながら仕事してたら特に何というわけではなくとめとなく涙が出てくる。
『アリー/スター誕生』のサントラを流してなんとか正気を保とうとしてるけどむしろ涙が加速するだけではという気もする。映画はすごく好きだった、あんなにつらいエンディングだと思わなくて、だって、これからなんとか戦いながら生きていくのかと、だってそういう時代だから、死んだって仕方ないから、どうやって死なずに自分の欠落と付き合っていくのかということが求められてる時代だって、だからどうしてって思ったけど
でも少し経ったらああ戦い続けることをもう求められたくないな、戦うことをやめるときくらい自分で選びたいなってどんどんジャックが自分に思えてきて、風邪のせいで余計に苦しくてもう社会のこととか考えたくないな、ごめん、もう疲れたよな、疲れたんだよ
でも戦い続けてしまうんだろうな自分は 楽になんてなれなくてさ
ジャックが楽になったかって 別にそんなことないと思うけど
悲劇に酔っているとか 残される人の気持ちを考えてないとか
まあ そうなんでしょう
あなたは正気なんでしょう 分かっている自分が間違っていることなんて
いつだっていなくなりたいだろ

ここ数日で世の中の人は自分の加害性に向き合ったりはしないのかって思った
何もしてなくても迷惑とか笑っているだけでただ生きているだけで傷つくとか
おまえは奪っているのだと言われたことのない人
一度被害者になれば加害者に悪に罪人になることはないと思っている人
何を言っても自分は許されると 何を言っても自分が正しいと思える人
誰かを殺したことがないと思っている人
うらやましいな 端的に すげーよ
自分が女だとはもう思えないな
女だからという理由だけで誰かと仲間になれたりしない
じゃあどうしたら仲間になれるのかって 分からんけど
正しいものを目指す
正しさってなんだろうか
正しさのために喋ってほしいという気持ちと
正しさのためじゃない言葉が聞きたいという気持ちが両方ある

自分より頭がいい人の中には本当に公平公正に物事を話している人がどこかにいるんじゃないかって期待が未だにある
自分より頭がよくて強い人なら自分や他の人のことを慮ってくれる、分かってくれるんじゃないかって気がしてしまう
だけど自分より頭がいい人にだってその人の主義主張があって
それが正しいとするために言葉を組み立てて喋っていることに変わりはないわけで
でも何かそうじゃない部分で喋ってくれる人がいるんじゃないかって期待がどこかにある
じゃあ「そうじゃない部分」ってなんだよって言われたら まあ分からんのですが

でもまあ 自分より頭がよくて強くて優しい人 いねえよな
そのどれかあるいはすべてが「私にはそう見える」にすぎないのだろうし
そもそもこの「自分より」って何なんだろうか?
というか単に私が「頭がよくて強くて優しい人」になりたかったということなのかもしれない
そして周囲の評価を聞く限りではある程度はそれを実現してはいるのだろうし
でも考えることも強さも優しさも これで足りるなんてことはない

会社に来たら椅子がなかった

会社に来たら椅子がなかった

別にいじめられてるとかではなくて

クビになったとかでもなくて

単にどこかに新しく席を作ったりどこかで椅子が足りなかったり

何かの理由で間に合わせに椅子が必要だったりして

私が休んでていなかったから 間に合わせに私の椅子を使ったんだろう

休んでた間のメールを整理して打ち合わせに出る前に全部送ったら

入れ違いで同じデータを上司が送っていた

責められてる気がした

上司は来てないと思ってたら先に打ち合わせに行っていた

出かけるとき「さっき(私)さんは来てるかって電話ありました」と同僚に言われた

責められてる気がした

そもそも電話あったなら来たときに言ってくれよ

電車に乗っていたらどんどん苦しくなって気がついたら涙が止まらなくなっていた

どうして椅子がなかったんだろう とそればかり頭に浮かんだ

どうして椅子がなかったんだろう

何に使ったかが知りたいんじゃなくて

どうして使ったあと戻さなかったんだろう

戻せなかったならどうして代わりの椅子を置いておいてくれなかったんだろう

どうして誰も使っていない隣の席の椅子じゃなくて私のだったんだろう

どうして私の席に椅子がないことを誰もおかしいと思わなかったんだろう

使わない椅子はいくらでもあるから代わりはあるし

使っていたのと同じ種類のに取り替えたから

椅子がないことは大した問題じゃない

大した問題じゃないけど

会社に来たら椅子がないとか

会社に来たら机の上に誰かの荷物が置きっぱなしになっているとか

会社に来たら机の上に置いていた付箋が誰かに使われて消えてるとか

そういうのが全部

いちいち削られる

と 涙が止まらず喫茶店で30分ほど休憩してから向かったら

打ち合わせは終わっていた

風邪はまだ治らない

セックスを許した(ある非性愛者の『君の名前で僕を呼んで』感想)

君の名前で僕を呼んで(Call Me By Your Name)』を観ました。
死ぬほど個人的な感想を書きます。
まとまりない文章なんですが、書いておかなくてはと思った。

私はデミセク寄りのノンセクとかその辺の自認を今のところしている人間で、BLが好きです。


!ネタバレ注意!


ずっと楽しみにしていました。ただ、こないだシェイプオブウォーターが果てしなくノットフォーミーだったことで絶望して「私、思ったよりララランドに救われてたんだな…」と謎の自覚をしたりなんだりしていたので、恋愛映画を見ることがわりと不安だったんですが、大丈夫でした。安心した。

シェイプオブウォーターの件で(一応言っておくがシェイプオブウォーターは別に悪くはない)二人は幸せに暮らしましたENDで「共に生きる」ということが幸せとして肯定される物語を食らうとめちゃめちゃすり減ることが分かったので、最後エリオとオリヴァーが離れ離れになったからこそ好意的な感想が出てきているな、という気もします。

同性愛が悲恋にされがち問題に関しては私もうーんと思うんだけど、結ばれないことで救われる人間もいたりする。

この映画は時代設定もあるし、世代ごとに少しずつ環境や葛藤の在り方が変わっていくのも大事な要素だよなと思いました。オリヴァーやお父さんが叶えられなかったからこそエリオのこれからの人生がどんなものであれ祝福に満ちたものだといいなあ。彼らはそれぞれの時代に生きるパラレルな同一存在なんだなと思った。


というかそもそも私は基本的に、相手を失う(あるいは永遠に獲得できない)ことを含めて己という存在が完成される関係性が死ぬほど好きなんだよなあ…みたいなことを考えつつ、具体的に好きだったところをあげます。

・じゃれあいのいとけなさに泣いてしまう
・あの恐る恐るの「えいっ」って感じのやりとりが一番泣いちゃう
・背中をぽかぽか叩いて飛びついたり、足の指を重ねるところがすごく好きだった
・相手の身体に興味津々なのが観ていて楽しかった(性器以外の部位も慈しんでいる感じが不快感がない要因だと思う)
・女の子としたとき、彼女が笑い出しちゃうのがすごく好きだった
・「痛みを葬るな」という台詞


ところで基本的にフィクションにおけるセックス描写に対しての私の率直な反応はだいたい、「変なの……」という親のセックスを目撃した子ども並みの感想なんですが、
たぶんセックス以外の描写に満足・納得していればキャラがセックスすることは受け入れられるのかな?という感じがしていて、だからこそBLは読めるというか、BLのことが好きなのかもしれないとも思う。

この映画を観て、あれは自分だと思う一定の誰かがいることをとても嬉しく思う一方で、私にとってはあれは絶対に私のことではなくて、でも、その上でなお私の見た夢だった。

自分にとってBLとは、私の愛せる愛だの恋だのや、私の愛せるセックスを探せる場所だったと思う。
もちろんセックスを愛さなきゃいけないなんてことはないんだけど、でも私は私の納得のために、それらを理解したかった。
この映画においてはエリオとオリヴァーだけじゃなくて、女の子とのセックスもまったく嫌悪感を感じなかった。楽しそうだった。いつもの「なんか変なことしてんな」という気まずさや居心地の悪さや退屈さではなかった。「なんか変なこと」じゃなくて、何をしているのか理解ができた気がした。
なんていうか、その「衝動」そのものが理解できた気がした。

もちろん私がそう感じただけで、そう思わない同じような属性の人間もたくさんいると思う。あくまでこれは私の話だということを分かってほしい。

でもなんていうか、私はセックスのことは分からないがその衝動というか、強烈な感情の矢印だけは持っていた。というか持て余していた。
主に二次元の男にそれを向けている夢女なので、それはいつも自分との戦いだった。しかも、同族嫌悪を抱きがちなタイプのキャラに対していつも戦いを挑んでいた。私は自分を肯定する代わりに対象のキャラクターを肯定しようとしていたんだなと最近気づいたところだった。

その誰かのことを好きではないのかもしれなくても、好きになりたいとずっと思っていた。
だからこの映画の、相手を肯定して自分を認めるという行為は、私の思い描いていた「好きになりたい」の「好き」だった。
私の「好きになりたい」が叶った世界だった。
私のこの、精神的デュエルを渇望する衝動のように、たぶんそれと対等に、肉体的接触を渇望する衝動がそこにあった。
私はそれをしないけれど、私はそれを理解できた。これは勘違いかもしれないが。

私は初めてセックスと対等になれたような気がした。
自分でもよく分からない、こんな感想はおかしいのかもしれない。おかしいのかもしれないとつい言ってしまうことが苦しいけれど。
でも私はこの映画を見て、なんだか少しだけ楽になった。
たぶん私は一生セックスに呪われて生きていくんだと思っていた。その呪いが少しだけ解けた。
この「少し」がどれだけのものなのか、どれだけ予期していなかったか、どれだけまだうまく受け止められないものなのか、あなたに分かるだろうか。

そんな不思議な映画だった。救われたというのとも少し違う。ただなんか、身体が軽くなったような、気が楽になったような不思議な心地だけがある。肩の荷が下りたような、逆にようやく地面に足をつけられたような、急に何かから自由になったことへの戸惑いがある。

それと、セックスとは関係なく、最近「自分の身体は自分の身体である」ということをときどき思い出しては身体性の獲得へとじわじわ取り組んでいるんだけど、それの一助になったような気がする。

あと、この感想の本筋とはまったく関係ないんだが、この映画では少年が大人になり青年が子どもでなくなるけれど、子どもであることも大人であることも罪ではなかったのが、何気ないけれど確実に嬉しかった。

地獄が俺を知っている

ニートして1カ月、予想通りのタイミングでハイパー鬱モード。
具体的にはいつもの血祭り前スーパーハイからの腹痛クラッシュ急降下。
私は血祭り前に体調とか気分が沈むのではなく血祭りが始まる直前が最もハイになる時期で、なった瞬間腹痛とそれまでアドレナリンでごまかされていた疲労が一気に襲ってきて1週間使い物にならなくなるのである。

予想外に朝起きることができていて、ウッソだろ私どうしちゃったのかしらなんて思いながら帰宅後は原稿という生活をしていたので疲労がたまっているのは当然なんだが、そもそも半年くらいほぼ引きこもっていたのに平日フルタイムで働くことができるわけなくねえかとは思っていたんだが、でも、できていた、できていたのだ、いたのだけれど。
まあ一度栓が抜けるとたまっていた疲労心労は一気に、そして鳴りやまねえし、体調不良で休んでんだから原稿だってできるはずねえのに、進捗がヤバイから余計に気持ちが焦って休まらねえし

そもそも原稿せずちゃんと早く寝てたらこんなに疲労たまらなかっただろと思うかもしれないけど、でも原稿がないとむしろ朝起きれていなかったし、会社に行くのも耐えられなかっただろうし、原稿があるからなんとかやれていて、昨日も少し原稿を進めたら随分気持ちが楽になってきた。

「ちゃんと寝よう」というやつをやめようかなと思って、とにかくこれ以上は今日はもう作業する気力体力ねえなって段階になったら布団入って、まあだいたい3時くらいなんだけど、それで9時くらいに起きて、まあ、2週間くらいはそれでやれていた。
よくないやり方なのは分かっているんだけど、でも早く起きるために早く寝るの無理なんだよ。それができたらこうなってない。寝れない原因はだいたいその日に満足していないからで、体力削っても原稿して満足して寝る方が心は穏やかなの。体力的にそれが続くわけないのは分かってたけど、でも、そうするしかなかった。他にいい方法が思いつかない。あったとしてできる気もしない。

休んでしまったこと、それ故に次の仕事が来ないことに落ち込んでいるし恐怖を覚えているし、どうなんだろうなと死ぬほど不安なんだが、でもまだ1カ月ですよ、無理だったら無理で他の方法また考えます、働き方、自分に合っているもの分からないけど、でもまた血反吐吐きながら試行錯誤するよ、がんばるし、がんばってるし、がんばれないときだっていっぱいいっぱい考えてんだよ、考えすぎて動けないってのもあるけど、でもさあきっと一生こうやって地獄を背負って生きていくんだろうなって、だから一生苦しいままなんだろうって、それを誇らしいとか、格好いいとか、そんなことも言いたくねえよ、ただ、ただ、苦しく、苦しさをごまかさず、ごまかすことができず、地獄を愛さず、憎まず、地獄と付き合っていく。
つーかここんとこずっと風邪気味みたいな体調だなあまあ冬だしなあと思ってたけどこれは花粉症じゃないですか?わりと重い花粉症のくせにいっつも風邪気味なせいで花粉の季節だってことに気づかねえんだよな。

読書と重力

仕事をやめて二ヶ月経った。送別会で久々に元職場の人々と顔を合わせて話を聞いていたら、ものすごく自然に自分にとってそれらが他人事になっていることを実感した。私はあそこで、それらを日常にして暮らしていたんだと思った。どんなに不恰好で無様でも、私はあそこで暮らしていた。ひとときでも。そのことに今は満足していると思う。

積読を読んだり図書館に通ったりしたいなと思った。勉強がしてみたかったし、これから何をするにしても、もっと勉強が必要だと思った。久しぶりに夜通し本を読んで図書館に足を運ぶと、知を貪ることがこれ以上ないほど幸福に感じた。

二月の間、休養していたときに何をしていたか今思い出せないんだけれど、月末にバイトを始めて、あと同人誌の原稿を始めて、なんかもうとにかく同人誌の原稿というのが生活を圧迫するくせにめちゃくちゃ生活を豊かにする。豊かにするというか、安定させる。と、いうか、はっきりさせる。しなくちゃならないこと(締切)がないと、楽で自由だけど寄る辺なくて、真っ白な平野を歩いて行かなくちゃならないような途方のなさが出てくるんだけど、山を設定したらとりあえずその山に登ることがしばらく生きる理由や目的になるので、もうずっと生きる理由が分からなくなっている上にどうやって生きていけばいいかも分からないのだけれど、今年中はとにかく同人誌の原稿をするために生きようと思います。

しかしバイトや同人誌の原稿をしていると思っていた以上に読書をする時間というのはなくて、結局電車の中で読んだり寝る前に少しだけという感じだから、かなりスロースペースにはなるけれど、ゆっくりでも読みたい本を少しずつ読んでいきたい。


プリズン・ブック・クラブ--コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年

プリズン・ブック・クラブ--コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年

一ヶ月ほどかけて読んでいた。一晩で読み通せない本を読むのは久しぶりだったのでペースが掴めず、生活を立て直しながら合間合間に読んでいたので最後は読み終えるのが寂しくなってしまった。空き時間に友達に会いに行くような気持ちで読んでいた。これから読書を取り戻していくぞ、というタイミングだったので、本を読むことに対するモチベーションが強化されてとてもよかった。読書についてもそうだし、その他の普段考えているテーマなどに結びつく場面も多々あって、それらが整理されたとは言い難いけど、これからの地図のような存在になってくれたなと感じる。



かつていた場所は過剰な重力の支配があって、自分が本来身動きがとれる存在であることを思い出した者はその重力から逃れようとする、そんな世界だった。私はかつて、その場所にある重力にこそ惹かれていたのかもしれないとすら思う。自分の軽さがあまりにも寄る辺なくて、途方にくれて、やっと選べると思った重力が、いかりが、そこにあると思いたかった。

けれど私は思ったのだろう、そんなものが欲しかったんじゃない、と、きっと。まだ見たことのない景色が数多にあるというのに、私はここで生き続けてここで死ぬことはできないのだと。

私は嵐から逃れたのではなく、再び嵐へと舞い戻ったのだ。私は地獄から逃れたのではなく、私の地獄に再び出会ったのだ。

私は嵐を追うことも逃げることもできず、ただ嵐こそが私であることをようやく知った。

読書は旅なのだろうな、とは以前から思っていて、だからこそ、再び読書と共に生きたいと思った。どんな場所でも、どんな道筋でも、きっとそばにいてくれるだろうから。どれくらいの重さがちょうどいいのかなんて、そんなの時と場合によるとしか言いようがなく、おそらくそのちょうどよさを探すために、誰かの重力を知ることを要請する。寄る辺ない生き方だからこそ、自分で重力を探す必要がある。それはほとんど死に場所を探すことに似ている(生きる理由と言い換えても、あまり変わりはないように思う)。私はずっと死んでもいい理由を探しながら、いまだ死に損なっている。死んでいったかつての私たちを時折ふりかえりながら、その残響たちが巡る荒野で。

寝れない夜のこと

眠れない、ではない。

眠れないというのは、寝ようとしてるだけマシというか、その分しんどいのだけど、寝られないというのは、寝ようという気が起こらない、寝ようとすることすらできない、身動きがとれない、動きたくない、そういう夜のこと。

気晴らしにやるゲームのライフを消化してしまえばやることがなくなって、寝ればいいのに、分かってるのに、何か食べたりしてしまう。

身体にしろ心にしろ弱っているときはご飯を食べてお風呂に入って寝るのが一番なのは分かってるけど、しんどいときってその基本的なことをするのすらしんどい。疲れる。

寝なきゃ回復できないのに、寝ようとするという行為自体が、自分にとってしんどくて、寝るのが遅くなって、起きるのが遅くなって、負のループなわけ。

雨宮まみさんが死んでしまった。

1日経っても、まだ、夢なんじゃないかと思う。仕事しながら、ずっと彼女のことを考えてしまって、一時間に何回も、夢なんじゃないか、そんな悲しいことは起きてないんじゃないかと、思う。

悲しくて、しんどくて、全然明るい気持ちになれなくて、仕事のことも、全然いいほうに考えられなくて、苦しくて仕方がない。

何もしたくない。何も。

苦しいけど、この苦しみをやり過ごしてしまったら、本当に彼女がいなくなってしまう気がして、ここから動きたくない。動けない。

でも私がどうしていようと彼女が死んでしまったのは事実で、いつかそれを受け入れる日が来るんだろうことは、そんなことは、分かっている。

でもまだ、嫌なんだ。

とはいえ、そんなことを言って仕事を休んでいると給料は減るしこの調子でいくとクビだし、仕事しなくちゃいけないから、なんとか自分を立ち上がらせるために映画の予約をして、自分を追い詰めてみたけども、こうやって、すり減りながら、ごまかしながら、クソみたいに安い仕事を続けることに、今、意味を見出せなくなっていて、だから、ようするに、しんどい。

お酒を飲んだら多少寝る気になったけど、マジでよくない酒の使い方だな。

なんで、こんなに不自由なんだろう。できないことばっかり。

仕方ないなんて思いたくないよ。

どうやって生きていけばいい。

それを一緒に探してくれる人だったのに、もういないんだな。

まだ、夢だと思ってしまう。

悪夢ばっかり見るタイプだから余計に。

先月の私に、トランプが当選して雨宮まみさんが死んじゃったよ、って言ったら、前者は認めるかもしれないけど後者は信じないだろうな。

悪夢みたいな世界で、どうやって生きていけばいいんだろう。

幸せになりたいわけじゃない。

苦しみを凌駕する喜びがほしい。

しばらくは明るい気持ちになれそうにない。

出口の見えない苦しみ

毎日のように微熱があって、でも37度程度なら無視して活動するんだけど、昨晩は薬を飲むのを忘れたのか明け方まで寝れず、目覚ましにも気付かず昼過ぎまで寝ていて、起きたら37度5分で、身体も重いし頭痛もするのでさすがに休んだ。

四六時中身体が火照っていて、頭もぼーっとして、食欲もないし、気晴らしにアニメの録画を見る気力もないし、かろうじて今モチベが上がっているソシャゲをしたりしてた。

今も頭が痛くて、でも明日はさすがに行かないと色々まずいので行くつもりだけど、もう全部投げ出してしまいたい、ということは常に思っている。

そろそろままとまって休みが何日かもらえるはずなんだけどいつになるかははっきりしないし、正直息切れしている。先週の前半よりは気持ちはだいぶ落ち着いたのだけど、身体が。

一度大きな病院で検査してもらったり、他の病院にも行ってみたら、と言われて、もちろんその方がいいのだろうなというのは思う。だけどそれをするには時間もお金も気力体力もかかるし、今の私にはそのコストを支払う余力が正直ない。(だからまとまった休みをくれ)

そもそも病院嫌いの私が今のところを続けてられるのは、色々適当でヤブ医者を自称してるような先生だけれども、その適当さが楽だし、何より予約なしでふらっと行けるのが最高だからだ。なんてったって私は決められた場所に決められた時間に恒常的に行くことが本当に苦手なものだから…。

まあでも、一応、一度ちゃんと検査とか受けて色々病名はっきりさせた方がいいのだろうとは自分でも思う。今のところは基本その辺はっきり言わないし。

けどなあ、その「病名はっきりさせる」ってけっこう険しい道な気もするんだよなあ。

今思うと、なんで学生のときにもっとスクールカウンセラーを利用したり、精神科にかかって病名はっきりさせておかなかったんだ…と思う。いや一度大きな病院に検査はしに行ったんだけど、まあ特別数値上の異常はないから自律神経失調症としか…みたいな結果だったような気がするし…(あまり覚えてないけど、覚えてないってことは大して役に立たなかったんだろうし)

結局心因性だとは思うんだよ、体調不良も朝起きれないのもさあ。だけどそれをどういう病気かはっきりさせる、とか、カウンセリングを受けましょうったって、じゃあどうやって探せばいいのよ…って感じじゃん。うつとか不眠症とか、そういうのになったとき、例えばインターネットで病院調べても、じゃあここ行ってみようかな、ってとこまででも大変なのに、予約は平気で一カ月とか先じゃん。正直無理じゃん、今つらいのに。

まあカウンセリングに関しては、以前一度受けたところが、紹介してくれた知り合い経由で予約できたので、今度行ってみるんですけど、病院に関してはもう途方に暮れてる…。

昨日寝る前に高校生の頃思い出してたら、あの頃って今以上に頑なに毎朝登校を拒否してて、わけわからないほどとにかく「朝起きて学校に行く」という行為に嫌悪感と恐怖感があって、今思うと何故あそこまで…とは思うけど、毎日あんな苦しみを味わってたあの頃の自分をどうにか癒せなかったろうか、と思うし、当時のあの苦しみは、誰も分かってはくれなかったし、私もまた、分かってほしいとも思ってなくて、起こしにくる母親へ泣きながら「放っておいてくれ」「ひとりにしてくれ」と毎日叫んでいたんだよなあ…とか思い出してたら、なんかもう色々悲しくなってしまった。

なんつーかあの頃も今も「当たり前のことを当たり前に行う」ということに対するはかり知れぬ拒否感と嫌悪感があるし、何もかもがこわい。

でも最近、会社に行くのは苦痛だけど仕事してるときが一番落ち着くんだよなあ…と気づいたので、やっぱり何か生産的なことをするのが一番恐怖が紛れるんだよな。